三角点から少し先のポコより。 そして学校跡へ。 今年も残雪期限定で、少しだけ山歩きをさせて頂く事に。 3月5日は美唄市東明公園の裏山へ。地形図上では無名の低山 301.31 m で、 三等三角点「三角山Ⅱ」が設置されている。地元では三角山と呼ばれているようで、 美唄鉄道唱歌にその名が見られる。中腹にある「ふるさとの見える丘展望台」は 改修前の名が「三角山展望台」だったようだ。 写真は郊外から見る三角山。左端は美唄温泉。 二年前のGWにSさんが登られていて、展望台から歩道がある事を知った。点の記にも 展望台から「小径あり」と記載されている。点名は「三角山Ⅱ」となっているが、 ざっと見た限り付近には同名の三角点は無いようだ。石狩川を挟んで北西に位置する 月形町の三角山 707.9 m(三等点名「三角山」)と区別しているのかもしれない。
私有地のようでブログで大っぴらにするのははばかられるが...もし行かれる方が いらっしゃれば、節度ある行動をお願いします。 地形図では南の麓から破線の徒歩道が描かれており、これに沿って登ってみることに。 Sさんの報告では廃道になっているようだ。カシミールで70年代の空中写真を見ると はっきりと道が写っていて、山頂付近の稜線上は太めの立派な道になっている。 東明四条の公園入口に除雪スペースがあり駐車。以前は公園内すぐ近くに東明閣という 温泉があった。来た道を戻り雪壁を登って美唄市サイクリングロードに入る。 サイクリングロードはかつて存在した美唄鉄道の跡地を利用したもので、 左手の三角山の麓を見ながら進むと 東明駅舎とシートを被せられたSLが見えてくる。 唯一残る駅舎は保存管理が行き届き非常にきれいだが、窓ガラスが無いのも相まって 若干のハリボテ感がちょっと残念(すみません)。 戦前、この地域一帯は東明(しののめ)と呼ばれ畑作中心の農村だったそう。戦後は炭鉱開発に ともない炭住が建ち並び、人口増加に対応するために昭和23年の三井鉱山からの寄贈により 東明駅が開業したとある(三菱ではない)。それからは地域一帯は「とうめい」と呼ばれる ようになる。美唄鉄道は昭和47年に廃止され、この駅舎のみ市に寄贈されている。 展示されるSLは国鉄4110形。急勾配に強い全動輪(五軸)だそうで、ぜひ見たかったが はだけたシートのチラリズムが悩ましい。 地形図に描かれた破線は右手奥に見えるログハウスのちょうど裏手から始まっているが、 やはり道らしきものは無く少し手前から取り付く。 やや急斜面を登り、 尾根に乗る。 道があったような感じもあるが、はっきりしてるのは鹿のトレースだけ。 鹿の寝床もみられて頭数は多そう。斜度は緩み、 少し登って右手に山頂方面が見えてくる。 程無くして左手に展望台が見えてきた。 景色に誘われて展望台へ。 スノーモビルやスノーシューのトレースがあった。 積雪期の展望台は広々として気持ちが良い。かなり前に車で来たことがあったが、 狭くて鬱蒼とした感じがあった。 眼下に東明公園。空知平野と樺戸山地を一望。札幌方面もよく見えたが霞んでいた。 分監山から三角山(月形町)。 美唄市開発町の田園には防風林が並び、このあたりの道道を走ると景色が良い。 こちらに向かう際に撮影。 展望台から山頂へ向かう。 少し登って山頂部。左右にスノーシューのトレース。 山頂到着。このあたりに三角点があると思われる。 鹿のトレースはこの先の稜線上にも続いている。 樹林に囲まれ展望は悪いが、東側に美唄国設スキー場が見えた。 稜線上を少し進んで、スキー場上部や他の方角の山々には炭鉱関連?の 事業所が見られる。 山頂から少し先の300m ポコ。左手は 植林地となって眺めが良い。 右手から順に、ピンネ、クマネと クマネから三角山。 ポコからはなんとか美唄山が見えた。 下山は展望台に戻り、展望台からそのまま西へ公園入口の駐車地点に向かって降りていく。 樹林は密ではなく程好い斜面で、スキーでもするかのようにスノーシューで 駆け下りていき気持ちが良い。途中スノーシューのトレースが出てきて、 この斜面を登ってきているようだ。てっきり車道を登ってきていると思っていた。 公園内の車道に近づくと地形図どおり沢に出るが、結構深くて沢沿いに降りていく。 またまたスノーシューのトレースが現れて、沢に向かっているのでたどってみると 砂防ダムがありこれを利用して渡っている。沢沿いは遠回りとなるのでラッキーだった。 砂防ダムを渡るとすぐに公園内車道となるが、左手奥の突き当りに町道が見えて 突き当りを右折すると駐車地点すぐ手前に出て終了。 下山後は円形校舎で有名な沼東小学校跡へ。美唄国設スキー場の横を流れる我路の沢右岸に その物件があるが、右岸の事業所は立ち入り禁止。左岸のスキー場レストハウス(沼東中学校跡) の裏をのぞいて見ると、小さな橋があって恐々渡る。 右岸沢沿いを進むと円形校舎と奥に体育館が見えてきた。右手にもう一棟円形校舎があったようで 二つ並ぶ円形校舎と体育館の間にも建物があったようだ。右手の門柱付近にあったと思われる橋は無い。 遺構好きは心霊スポットもへったくれもなくどんどん進んでいく。 校舎はきれいな円ではなく、頂点の多い多角柱という感じ。 扇形の教室が見えて要の位置に黒板があったようだ。 渡り廊下接合部の半開きのシャッターから階段が見える。接合部は斜めにやや南を向いている。 二棟の円形校舎をY字型に結んでいたようで、凝った造りだったようだ。 円筒中心部の螺旋階段最上部にはモダンな明り取りがあるらしい。 南向きの教室。 体育館の柱はカラフル。閉校後に火災で焼け落ちたそう。 反対側から。ここから少し上流にも橋が架かっているが、遠目で状況不明だった。 美唄市史によると、円形校舎は美唄市初の鉄筋コンクリート校舎として 昭和34年に完成し、昭和36年には児童数1635人を数えたとあるが、 三菱美唄炭鉱の閉山(昭和48年)にともない昭和49年3月に閉校している。 振り返りながら円形校舎を後にする。児童数が千人を超えたマンモス校跡は静寂に包まれ自然に戻っていく。 撮影中にはっきりと若い男性の声が聞こえてきて、誰か来たかなと思って周りを見渡すも 人影やトレースは無かった... 参考文献 美唄市史 へんさん者:美唄市史へんさん委員会/発行者:美唄市長 沢田孝夫 1970年7月10日
by tafu-r
| 2016-03-06 09:50
| 空知
|
Trackback
|
Comments(0)
|
by tafu-r 検索
カテゴリ
タグ
外部リンク
記事ランキング
|
ファン申請 |
||