外輪船を訪ねて。 美原大橋を過ぎると対岸に製紙工場が見えてきた。ここからは追い風となり向い風からやっと開放される。 こがなくても前に進んでいく。さいこー。ぐんぐんスピードアップ。 すぐにトラスの石狩大橋が見えてきた。石狩大橋の歴史は少し古く、滝川市・新十津川町間に架かる石狩川橋より 下流にできた初めての橋ではないだろうか。石狩大橋より更に下流に橋ができたのはなんと48年後で、 すぐ下流の新石狩大橋だったという。下流ほど川幅が広くなり泥炭の軟弱地盤と洪水による流れの変化により 橋は架けられなかったという。治水事業と橋梁設計技術の進歩を待たなくてはならなかった。 石狩大橋を過ぎて川面に小船を見かける。左手の船は漁船に見えたがヤツメウナギ(カワヤツメ)漁だろうか。 江別市の特産品であったヤツメウナギの捕獲量はは昭和63年以降激減しているという。 すぐ近くの世田豊平川合流部には漁に使われる船付場が見える。世田豊平川は現在の旧豊平川から続く 豊平川の旧河道で、かつての豊平川はここで石狩川に合流していた。 少し進んで国道275号に架かる新石狩大橋。国道275号は北側の篠津運河まで4車線化工事が進められており、 下流側に増設される橋の橋脚工事が行われていた。 新石狩大橋を過ぎて突き当たりが旧石狩川(現篠津川)となる。すぐ左手が現石狩川との合流部となるが 河畔林が生い茂りまったく見えない。突き当たりから右手に旧石狩川堤防上の未舗装路が続く。 ここから田んぼの向こうに見える篠津運河水門まで迂回しなければならない。けっこう遠い。 この辺りの石狩川はその昔大きく蛇行していて、その湾曲の頂点あたりに篠津運河が繋げられた。 現在はそこに篠津運河水門がある。石狩川のショートカットされた部分は対雁捷水路という。 中津湖は旧河道の砂利を採取した後にできた水溜り。その横で篠津川が屈曲している所が 旧石狩川への合流点だった。
横風を受けながら未舗装路をよたよた進み、右手に大きく広がった旧河道(対雁河跡湖)を見ると 篠津運河水門にやっと到着。篠津運河の終点となる。月形町の石狩川頭首工からの再会となるがここまで長かった。 水門から対岸へ渡ることができる。 篠津運河の上流側。すぐ近くに国道275号。右手遠方にはには芦別岳と十勝岳連峰の 富良野岳あたりが見えていた。 下流側は旧石狩川(現篠津川)と運河接続部。遠景は手稲山。 もう対岸の堤防上を走る元気も無いので、南八号の市道に入り当別川に架かる十九線橋を渡って大きく迂回。 迂回したので豊平川の合流部は見られなかった。写真は十九線橋から見下す当別川の河川敷。 当別川右岸の堤防に入る。遠くに札沼線石狩川橋梁のトラスが見えてくる。 当別川が石狩川に合流する部分に近づくとこんなパネルが立っていた。 昔の合流部は双方とも蛇行していたが後に直線化されている。直線化された部分は篠路第1・第2捷水路という。 現在、その河畔の自然再生事業が行われているようだ。自然再生は疑問。壊してはいじりまた壊してと 税金の使い道がいっぱいあっていいですねw 少し進んで札沼線(愛称:学園都市線)の石狩川橋梁(篠路鉄橋)。先代の曲弦ワーレントラス4連に代わり現代的な 平行弦ワーレントラスとなった。強風による徐行や運休が多いため下流側に風除けフェンスが設置されていて、 ちょうど列車が通過したが屋根の部分しか見えてない。道内最長の鉄道橋で先代は1934年供用開始、 現橋梁は2001年供用開始となっている。 北海道の開拓は石狩川の水運が支え、札幌からその流域沿いに進んでいった。石狩川舟運の本格利用は 明治時代の樺戸集治監(月形村)の二隻の監獄汽船「第一樺戸丸」「第二樺戸丸」からで、二隻の 外輪船「神威丸」「安心丸」が加わる。その後、石狩川・千歳川では陸路が整備されるまで更に二隻の 外輪船が加わり計四隻の外輪船が活躍したが、札沼線の開通に伴い廃止されている。 運航した四隻のうち最大の鉄船「上川丸」の実物大模型が、江別市河川防災ステーション内で展示されているそうで、 後日見に行った。 外輪を下から。 平たい船底。水深1m前後の所でも航行できたそう。 操舵室。 船員室と食堂。 船尾の客室。 船首はガラスの反射がひどく、PLフィルターも役に立たず。 館内には明治末期の江別港と製紙工場の様子を再現したジオラマも展示されている。 雑穀を積み込んだ淀船を引っ張って江別港に入る「上川丸」と「空知丸」。 奥には、江別川(現千歳川)に架かる江別橋と江別鉄道橋。 江別橋。 「空知丸」の荷揚げ。外輪船で運ばれた農産物は、鉄道で札幌や小樽に輸送された。 江別鉄道橋を走るSL。運転室や炭水車の表示「H.T.T.K.K」から北海道炭礦鉄道(前身は官営幌内鉄道) の車両と思われる。形状から国鉄5700形もしくは5800形蒸気機関車だと思われるがどうだろうか。 官営幌内鉄道は1882年(明治15年)に、小樽市の手宮駅~札幌~岩見沢~三笠市の幌内駅まで全線開業している。 ジオラマの説明では、同年江別駅も開業し、江別は川と鉄道の中継地となり商業都市として発展したとある。 製紙工場のジオラマ。流送された原木を引き揚げている様子。引揚げ場を網場(あば)と言う。 貯木場まで馬で運ばれ、皮をはがして紙の原料へ。 積み上げられた木材。なかなか秀逸なジオラマで楽しく拝見。他には石狩川治水の歴史年表や 江別川周辺の古い写真のパネル展示、自由に閲覧できる石狩川関連の書籍があった。 石狩川に戻って、石狩川橋梁からすぐ下流に札幌大橋。こちらも4車線化工事が進められ 下流側に新橋が増設されるようだ。 札幌大橋を渡って石狩川左岸に入る。旧河道の茨戸川・真勲別川を見ながら大規模な捷水路の堤防を走ることとなる。 捷水路は上流から順に当別捷水路・生振捷水路という。茨戸川から堤防を挟んで河川敷に石狩川に通じた河跡湖の小沼がある。 この辺りまでが当別捷水路となる。小沼には小舟が泊めてあり、 すぐ近くに冬期に使用される網ドウが置かれてあった。ヤツメウナギ(カワヤツメ)漁が行われているのだろうか。 秋は茅ドウが使用されるらしい。 少し進むと立ち入り禁止のゲートがあった。徒歩や自転車で散策している人が多く、 入ってみたが工事が行われている形跡もなく問題なかった。 立ち入り禁止区間は長くはなく、数分走ってゲートがまた現れる。 脇にはブロックが置かれていて、車両の進入を厳重に拒んでいる。 真勲別川を見ると生振捷水路が終わる。遠くに石狩放水路の脇に立つ風車が見えている。進行方向に石狩河口橋の主塔が見えて ゴールは近い。下流は緩く蛇行して行き、左岸に残った湿地はマクンベツ湿原として木道が設置されている。 マクンベツ湿原の入り口が見えてきた。木道は雑草に覆われて見えない。 志美運河水門の橋を渡るとようやく石狩河口橋。 石狩河口橋は小学生の頃に完成して父の運転する車でよく渡った。供用開始当初(1972年)は対岸(右岸)に渡って直ぐに ランプで地上に降りていて、後に延長された記憶がある。立派な橋ができたなーと思ったが、今見るとけっこう昭和なデザイン。 基礎工法は鋼管矢板セル型ウェル工法とかで橋梁基礎としては日本初だったらしい。架設中に初代タコマ橋と原理が同じ振動 (自励振動)が起きたそうで、風洞実験の結果カルマン渦制御の目的で両サイドにフェアリングを取り付けたそう。 河口方面が見えてきた。コンクリートの建物は石狩市観光センターで石狩町旧役場があった所。 花川に新庁舎ができて1993年に移転した。 堤防は石狩市観光センターの横で鉄筋コンクリートとブロックによって作られた石狩市街堤(特殊堤)に変わる。 幾つも並ぶ小船用の桟橋を見ながら進むと、その外れに石狩川河口渡船場跡があった。 奥に見える阿蘇岩山が近い。 安政の時代から記録のある渡船場は、国道の一部となって昭和30年に国営化された後に交通量が増えていった。 昭和40年代のピーク時は最大4時間待ちの事もあったそう。実際渡ったかどうか覚えていないが、子供の頃に 人と車を載せて行き来する渡船を見ていた記憶がある。 対岸の八幡町。赤い屋根のお寺の手前あたりに船着場があったと思われるが、川の流れに浸食されたのか 桟橋などの痕跡はまったく見られない。 地域住民の交通手段として数多くあった渡船場は、上流から架けられていった橋により次々と姿を消していった。 最後の難所に石狩河口橋が完成して最下流の渡船場もその役割を終えている。 特殊堤から再び通常の堤防となると、町のはずれに石狩八幡神社が見えてきた。右手奥には石狩燈台。 河口は左岸の砂嘴が発達して移動している。1810年代の末頃は八幡神社のあたりが河口の先端だったらしい。 砂嘴の伸長は続き、1892年に砂嘴の先端に建設された石狩燈台は、現在は河口から1km以上上流に位置する。 ようやく石狩燈台まで来た。ゲートから堤防を乗り越して河口に向かう道があり、 はまなすの丘公園の木道を横に見ながら進む。夕暮れ時に木道を散策している人が結構いた。 途中、東屋から中道が海岸に向かって分岐する。付近の海岸近くには四等三角点「渡船場」があるが、 ハマボウフウやイソスミレ等の保護のため海浜植物保護地区に指定されているので立ち入り禁止。 近年ハマナスも減少しているそうだ。昭和20年代は海から見ると丘全体が真っ赤に見えるほどだったらしい。 燈台方面を振り返る。日没が迫って来た。河口までなんとか間に合いそう。 道は砂が多くなりMTBの走行は不可能となった。ここからは徒歩に。 もう少しで河口。 植物の無い砂地となって砂嘴の先端へやっと到着。河口は波が打ち寄せて海だか川だかわからない状態。 安瀬山などの向こうに増毛山地の峰々の頭がちょこっと見えている。にわかサイクリストには結構しんどかった。 GPSトラックでは移動距離が約107kmで、砂嘴の先端部は海(川)の中を歩いていた。いつ更新された地形図か 知らないが、砂嘴の形状は日々変化しているのだろう。 かつての秋鮭漁の賑わいはどんなものだったのだろう。漁獲高を見ると、寛政年間は石狩場所に浜益、厚田、シコツを 合わせると蝦夷地全体の半数を占めたという。明治十年代には水揚げのピークを迎えたが、その後河口での漁獲は 流域内陸部の開拓が進むにつれて減少して、大正末期になると明治十年代の3%ぐらいしか獲れなくなったとある。 近年は鮭の回帰が回復傾向にあるというが、群れをなして河口を遡上する姿を見たいものだ。 今回、中流域から走ってもそれなりに充実感があった。源頭から河口まで、またはその逆を実現できれば 感慨無量となりそうだが...無理そうw 来年は千歳川にトライしてみようか。 参考文献 石狩川紀行 北海道文明史をさぐる 西野辰吉 NHKブックス 242 1975年11月1日 石狩川 流域発展の礎・治水 石狩川振興財団 監修 北海道開発局 石狩川開発建設部 2002年12月 石狩川の橋物語 編著者:三浦 宏/発行:石狩川振興財団 2006年3月
by tafu-r
| 2014-12-13 22:55
| その他
|
Trackback
|
Comments(0)
|
by tafu-r 検索
カテゴリ
タグ
外部リンク
記事ランキング
|
ファン申請 |
||